事故の瞬間 その2

事故直後、予備の眼鏡を掛けた私は周囲の車が全て止まっているのを目にした。正確には自分の前にいた車から止まっている。
運転席のドアを開ける…車体に違和感を覚える…右後ろのスライドドアが運転席ドアに被さるかのように前にズレており、運転席のドアはスレスレで開いていたのだ。
身体の痛みに耐えながらなんとか車から這いずり出す。
立ち上がり自分の車を見直す…やはり後ろのスライドドアが通常位置よりもはみ出している。車体自体が変形しているようで、車両後部には黒い車がめり込んでいる…この車が追突したのだと理解した。
右隣にいた車は中央分離帯にまで飛ばされたような状態でいる…この車にもぶつかったのだろうか?

酷い首の痛みに耐えながら、ひとまず歩道へと移動する。
一人の男が「どうしよう…どうしよう…」というようなことを言いながら焦っている、突っ込んだ車の持ち主だろうか?
その男に私は話しかけた、突っ込んできた車の持ち主かと。
男はそうだと言った。
私はなぜ事故が起きたんだ、と訊く。
男はパニックを起こしながらも「CDを入れ替えていて、気がついたら目の前に車がいた」とハッキリ答えた。そのことを再度確認したが、その通りで間違いがないと言う。
「どんなことをしても全て保証しますから…」と男は言った。その時の私は愚かにも、その言葉を鵜呑みにして信じてしまった…なぜだろう…頭が回らなかったのだろうか?

男から離れ自分の車を見る。黒い車がひどくめり込んでいるように見える。納車から半月であったが「廃車かな?」と頭によぎる。
ふと私の前の車に目をやると後ろがヘコんでいる…私の車のフロントにもヘコみがある…てことは玉突きしたのか?
私はシフトをPに入れてパーキングブレーキも掛けており、仮に衝突時の衝撃等でブレーキから足を放したとしても少しぐらいでは玉突きするとは思えなかったが…しかし車の位置的に私の車が押されて玉突きしたとしか考えられない…どれだけの衝撃があったのだろうか?

周りを見ると私の車と隣の車、そしてその前後一台ずつが被害を受けているように見えた。(後日、加害車両が後ろの2台を左右に弾き飛ばし、私と隣の車に追突し、それぞれが前の車に玉突きした、加害車両を含めて7台、6台玉突き事故だったと知った。)

黒い車からは油かなにか、液体が漏れだしている…その後ろには長い渋滞…
やがてパトカーが到着しだす。すでに誰かが通報していたのだろう…八戸警察署からは車で3分ほどだろうか…私は事故後すぐに車から這い出して加害者に話を聞いたつもりでいたが(3分も経っていなかった気がするが)、実際には思っていたよりも長い時間が経っていたのだろうか? そう言えば車から這い出た時にはすでに他の人は外にいた気がするが…私だけ気を失っていたってことだろうか?

私は強い痛みに耐えながら「とにかく連絡を入れなければ…」と思い、実家と職場に電話をした。救急車はまだこない。

これが2008年3月17日午後4時40分ごろに発生した事故直後の私が覚えている記憶だ。

事故の瞬間

その時、私は信号待ちをしていた。

場所はくら寿司八戸城下店がある場所の前の道路だが、当時はまだくら寿司がなく空き地であったことを覚えている。2008年3月17日、時刻は午後4時40分ごろ。
乗っていた車はスズキのパレット。
納車からまだ半月で初めてのオートマ車で慣れていなかったこともあり、パーキングブレーキをかけてシフトレバーも「P」に入れた上でブレーキを踏んでいた。信号が赤に変わったばかりでしばらく待つことが予想されたためだ。
前には何台も車が止まっている、10台はいただろうか
右手でハンドルを握っていたことを覚えている。

ふいに、ルームミラーの中で黒い物体が右に左によぎった。

気がつくと目が見えない、眼の前がぼんやりと真っ白…顔に触れると眼鏡が無くなっていた。
シートが倒れている、倒したはずはないのに(後日運転席のリクライニング金具が折れていると判明)
気は失っていなかったように思えた。しかし衝撃から今の体勢までの記憶がない。眼鏡が無くなって見えなかったのかも知れない…いや、それでも車が停止するまでのことを覚えていないのはおかしい。
わずかな時間だが気を失っていたのだと思う。

とにかく車を止めねばと思ってパーキングブレーキを踏もうとするが、すでに踏みこんである。自分で操作していたことを思い出す。
首と右肩、右腕に酷い痛みが走る。何とかハンドルを握り身体を起こす。
眼鏡を探すが見つからない、予備の眼鏡を掛けて辺りを見回す。
そこには酷い状況が広がっていた。

10年前の今日

10年前の今日、私は交通事故に遭いました。

2008年3月17日午後4時40分ごろ、場所は八戸市城下の国道45号線上でした。当時はまだありませんでしたが、今はくら寿司があります。その眼の前の道路が事故現場でした。

以前、同じタイトルのブログを作り、この事故に関して書き始めたことがあります。
しかし精神的な辛さなどで、続けることが出来ませんでした。

でも、また書き始めようと思います。

先日、あの時の事故の新聞記事を八戸市図書館で探し、初めて読みました。
事故の翌日となる2008年3月18日(火)付のデーリー東北朝刊の23面にその記事はありました。

それはテレビ欄の裏側の紙面の下方にわずか11行、119文字載っていただけでした。

この記事からは、あの時にあったことの多くは知り得ません。実際には当然、もっとたくさんのことがあったのです。
それをまず伝えたいと、そう思いました。

そして何より、悔しいのです。
加害者は警察の取り調べを受け、裁判に掛けられ、判決を受ければ終わりかも知れません。
でも私の事故被害は今でも続いています。

私は事故から10年たった今でも後遺症で通院しています。
1日に7種類、計18錠の薬を飲んでいます。動けなくなるほどの痛みを緩和するためのものです。
年に60回超、120時間超の時間を通院・治療に割いています。
医療費は年間13万円を超えます…市販薬も含めると16万円ほどでしょうか。
私の事故の後遺症は完治することなく、少しずつ悪化しています。

これらが無かったことにされるのは、正直悔しいです。

だからやはり、また書き始めようと思います。

悔しさを吐き出すためだけではなく、この事故のことを知った人が少しでもいてくれることで、回避できる事態もあるはずだと信じながら。