人に話せば楽になるのだろうか

人に話せば楽になるという、という人もいる。
でも必ずしもそうでないことを私は知っている。

そもそも人は、自分で経験したことのないことはなかなか信じてくれない。分かったふりをしていても、何か気に入らない小さなキッカケさえあれば、すぐに『嘘つき』呼ばわりしてくる。疑惑の目を向けてくる。

私の症状などは、他の交通事故被害者でも効いたことがないようなものだ。
頚椎の第7番にヘルニアがあるのに左腕のみならず左脇腹や左脚にまで症状が出ていること、脳梗塞の症状かと思うような左顔面の引きつりや言葉が出なくなること、さらには左半身の多くで触覚が薄いあるいは感じないことや気温が分からないことなど例を上げればキリがないが、最たるものに、左半身と右半身で体温が違うことが上げられる。

右脇が35度で左脇が31度、これが私の体温が一番低かった時の体温だ。冬場のことでここまで極端なのは稀だが、今でも冬場は右脇35度、左脇33度代ぐらいは珍しくない。
夏場はこれが逆になる。右脇で36度後半で、左脇が39度になる。
右手で触ると、冬場は左腕や左脚、左の胸や左の腹まで右より冷たいのが実感できる。しかし夏場が逆に熱がこもった感じで不安を覚える。左半身が汗をかきづらいのも知っている。
これに加えて、左腕をはじめとする左半身に発作が出ると、一気に左側の体温が下がっていくことも実感している。右手で握っているその間にもどんどんと左腕が冷えていく。

だがこのような症状、私は聞いたことがない。誰の人だって同じで、誰に言っても初耳と言う。

残念だが、人間の多くは自分の経験したこと以外は信じないし、イメージすることも難しい。
だからマイノリティである時点で、人に話しても共感してもらえず楽になれない、それどころか信じてもらえず嘘つき扱い、あるいは『病んでいる』の一言で片付けられて放棄される、それがオチだとそう経験している。
だから基本的に、話すだけ無駄なのだ。楽になるどころか苦痛が増えるだけなのだ。

そして私は、なぜか分からないが、最初に出会った時から全て信じている人が極少数存在する。今まで生きてきて二人だけ、それ以外は本当は信じていない。

ただ私は自分の中身が足らないことを強く実感している。
実感しているからこそたどり着いた答えは、「しっぺ返し戦略」に近いものだ。
本当に信じられる人などめったに会えない。1年前に見つけてしまった人にも嫌われ、もうそんな人は現れないだろう。
だからこそ信じていない人に対しても、信じていると自分に嘘を付き相手が裏切らない限り自分からは裏切らないで生きることにしている。

でもニセモノの信じている人には何を話しても例え裏切られなくても、私は楽にはなれない。
信じていないから、ルールで裏切らないから信じているように振る舞うだけだから、ただただ負荷が増えていく。

なのに本当に信じている人には、わずかに話すだけで心が楽になる。
内容がボロボロで酷いものでの、その人に話すだけで救われる。せいぜい翌日ぐらいまでだけれども、衝動を抑えて踏みとどまれる。

けれどもね、誰もそんな面倒には関わりたくないんだよ。
「カウンセラーじゃないから」
「仕事だから」
「他の人も同じようにしてくれるよ」
そんなの意味がない。
肩書や職業や容姿なんて関係ない。もしかしたら性別も人かどうかも生き物かどうかも関係ないのかも知れない。
ただ私が何故か信じられた人、その人と話す時だけ、私は自分が存在しているように感じられる。それ以外はずっと、足らなくて渇いて自分がいることも信じられなくなる。

理屈じゃない、私にもなぜか分からない。
最初に見た時からもあったし、1年前のは声を聞いただけでそう思った。

だから、人と話しても楽になんかならないんだよ。
信じられる人なんていなければ、逢わなければ、周り全てが疑うだけで済むならば絶望に浸っていられたのに。 例えマイナスだらけでも、プラスがなければそれは当たり前でマイナスだと実感しなくていいから。
プラスを知ってしまうことは、もう人に話しても楽になんてならないって知ること。

助かる方法、踏みとどまる方法、それを知っていて手に入らないから余計に、そうじゃない人に話しても楽にはならないんだよ。

1年は360日

私の1年間は360日です。

私は交通事故の治療のために、未だに病院通いです。毎月5回以上、年に60回以上病院です。
1回につき平均で約2時間かかります。お尻に痛み止めの注射、そして痛み止めの点滴、それから電気治療が9箇所、マイクロ波治療を2箇所にレーザー治療1箇所、それからマッサージ。あと月に3~4回ぐらい神経ブロック注射、です。

つまり1年のうち、120時間以上を交通事故の後遺症の治療に費やしているわけです。薬局も合わせると+6時間ぐらいかな。市販薬も併用しているので、そこの購入まで含めると合計で6日分の時間ぐらいは浪費している気がするけれど…

とにかく、最低でも1年に120時間=5日間は、私は普通の人よりも時間が少ないのです。

これが自分で起こした事故だとか、誰のせいでもない事故だとかならばまだ諦めもつきます。
しかし他人の起こした事故、こちらの過失がゼロの事故なのですから、毎年5日間=120時間を加害者に奪われているのと変わらない状態です。

現在の仕事を時給換算すると約1000円ちょいなので、12万円分以上を奪われていると言えなくもありません。
おまけに実際には年間の交通事故後遺症の治療費・薬代が12万円以上なので、もう24万円以上を毎年加害者に奪われている気分になります。

まだ完治したならば、あるいは将来的に完治するならばね、もっと寛容にもなれるでしょう。
でも私の後遺症は悪化していますし、このまま自然に治る可能性は無いそうです。手術しても失敗すればさらに酷い状態になる可能性があるそうですよ。

だからこんなことを言っては、思ってはいけないのですが、私はどうしても思うんですよ。

事故も事件も加害者が得をする、ってね。

例え加害者に悪意がなくとも、その奪った人生…仕事や健康、金銭、人間関係、その他諸々の全ては帰ってはきません。
しかし「加害者にも未来がある」と言って加害者を養護し、被害者にはある程度少しだけ応援したらあとは勝手に生きていけとばかりに投げ捨てる、それが現実だと思っています。

私が毎年5日間を、12万円超を加害者に奪われる現象は死ぬまで続く予定です。悔しいね。

嘘つきの定義

「お前は嘘つきだ」

と面と向かって言うことはまずない。

たいていは

「そんなことありえないと思うけどね」
「他の人はそんなこと言っていないよ」
「まぁ気にし過ぎないで気楽に」

と言う言葉の裏で

「そんなまずありえないこと言うなこの嘘つきが」
「他の人は言ってないんだからお前の嘘に決まっている」
「実際はそんなことないのに被害妄想で騒ぎやがってこの嘘つきが」

と言っている。

自分で書いていても、ありえない対応の連続に思う。

加害者の任意保険(教職員共済)からいきなり電話で、
「そこにいたあなたにも責任があるじゃないですか」
と言われる。状況も確認しないままにそう言われる。

運ばれた病院の指示に従い翌日行けば
「そんなこと言うはずない」
と私の聞き間違いと決められる。確認してのにそう言われて、それも言うはずないと言われる。

医師には
「1番軽症なのに大げさに痛がっている」
との旨言われる。まるで当たり屋のように扱われ、症状を否定される。

「嘘つくな」とは言われていない。たしかにそんな単語は言葉は使っていない。
でもこちらの説明を否定して自分の描いたストーリーを押し付けるのは、こちらを否定しているのとは違うのですか?

私がこれまで書いてきた中で、看護師に、医師に、教職員共済職員に、嘘つき呼ばわりされたと感じています。

これから書く予定の中でも、沢山否定されてます。嘘つき呼ばわりされ、当たり屋やたかりの様に扱われています。

私の事故の過失はゼロでした。
でも仕事を無くしました。
働けるようになるにもだいぶかかりました。
働くのも以前とは違い、年に何度も労働不能になっています。
その状態で完治しない体で年に何十回も通院し、月に1万円以上支払い、毎日7種類18錠の薬を飲み、それでも動けない日があります。どの薬も痛み止めのためです。

その上でなんで私の話を、状況説明を、感じている痛みや苦しみを、否定されねばならないのですか?

そう言う暗に人を否定する者たちこそ、私は嘘つきといいたい。
自身が楽するために、優位になるために、他の人にツケを回す、それこそ嘘つきだと定義したい。

本当の事故原因についての考察

事故直後に私が加害者から聞いた事故原因は
「CDを入れ替えていて、気がついたら目の前に車がいた」
であった。
正確には
「CDを入れ替えていて、気がついたら目の前に車がいて間に合わなかった」
と言ったと記憶している。

しかし警察で警察官から聞いた加害者の言い分は
「車が近づいてきたのが分かったのでブレーキを踏もうとしたが、間違ってアクセルを踏んでしまったと言っている」
だった。

私が聞いた話の「間に合わなかった」は、何が間に合わなかったのだろう?
ブレーキを踏むのが間に合わなかったのか、それともブレーキを踏んだが間に合わなかったのか、どちらなのだろう?

警察から聞いた話では「ブレーキを踏もうとしたが、間違ってアクセルを踏んでしまった」となっている。
これはつまりブレーキを踏んでいない、ということではないだろうか?
おそらく現場検証などもしているだろうが、その結果(ブレーキ痕があるかどうか)を私は知らない。裁判の詳細も分からない。
ただ警察官の言葉を信じるならば、あれはブレーキを踏んでいないという内容であるはずだ。

私が聞いた話に戻って、ブレーキを踏んでいないのだとすれば、ブレーキを踏むのが間に合わなかったということになる。

視点を変えて、

警察の話では「間違ってアクセルを踏んでしまった」となっているのだから、衝突までにさらに加速していただろうことが想像できる。例えば50km/hで走行してきたが、誤ってアクセルを踏んで80km/hで衝突した、というように。
しかしもし私の聞いた話でブレーキを踏むのが間に合わなかったのだとしたら、例えばスピード違反の80km/hで走行してきてそのまま2台の車を左右に弾き飛ばし、私の車に直撃しながら隣の車にもぶつかり、それぞれが前方車両に玉突きした、ということになるのだろう。

加害者車両はトヨタのベルファイヤだった。2トンぐらいある大きな車だ。
しかし大きな車とはいえ、2台の車を左右に蹴散らし、完全に停止してパーキングブレーキもブレーキも掛けている車を車間距離を撮っている前方車両にまで玉突きさせるほどの威力をもたらすためには、果たしてどのぐらいの速度で追突すればいいのだろうか?

この事故の本当の原因は、ブレーキとアクセルの踏み間違えではなく、運転中にCDを入れ替えたという加害者の行動でもなく、加害者の無責任な速度超過での運転によるものが大きのではないかと、事故から10年以上経った今、私は考えています。