冬が近づき体温異常に気付く

冬が近付き気温が下がり、私は異変に気が付いた。

左半身が凍えているように冷たい。
しかし寒気を感じない。
体温を計ってみる。34度前半、低い。
元々見た目によらずそれほど体温は高くない方だ。冬場だと36度を下回ることも珍しくない。
しかしまだ12月になる前のこの時期にこんなに低いのはおかしい。しかも寒気も感じない。というか触った右手が左半身の冷たさを感じているのに、触られた部分は右手の温もりを覚えない。
試しに右脇でも計ってみる。右は36度半ば、左右で2度以上違う。
風邪か何かなのかとも思ったが、それは左右の体温差の説明にはならない。
これまでこんな体温異常はなかった。
これが一時的なものならいいが、そうでないなら左腕や左脚は全く動かなくなるのではないか?
それこそ左半身がもっとおかしくなったり、あるいは腐ったりするのではないか?
そう思えた。

12月になり左脇で計る体温は更に下がり34度を下回った。右脇は36度ちょうどで、やはり温度差は2度以上あった。
1月になり左脇での温度計は32度台突入、右脇での計測も35度後半になり、温度差が3度近くになった。
2月になるとついに31度台にまで落ち込んだ。一番低い時で31度2分。この時右は35度5分ほど。左右で4度以上も体温が違う。
左腕が、左脚が、うまく動かない。年明けから湯たんぽなどを使うようにしていたが、温めても温めてもこの有様だ。どれだけ温めても左半身が凍えてたまらない。

そう言えばこの部屋には暖房がなかった。
交通事故に遭う前、2年ほど祖父母の介護生活をしていて仕事に就けず、お金もなく貯金もなく、ストーブも灯油も買えずにいた。
その介護生活がようやく終わり、なんとか仕事に就いて3ヶ月で事故に遭ったために、暖房器具を買う余裕も貯金をする時間もなかった。
だから数年の間、暖房無しで八戸の冬を断熱材もろくに入っていない古い家で、布団にくるまってしのいできたのだ。

あまりに左が冷たすぎて死ぬかも知れないと思ったが、死ぬことはどうでもよかった。ただこのまま苦しみだけが増していき治りもせず、ただただ痛く辛く悔しく情けないままになることが嫌だった。

それでも3月になると、わずかに体温が上がり始めた。
4月には冬の入り口ぐらいまで、左の体温は戻った。
5月にはなんとか35度を超えるようになり、体温低下によると思われる動きの悪さは改善した。

この時は「事故に遭ってまだ1年目だから」、と自分に言い聞かせていた。
でも10年以上経った今でも左の体温異常は変わらず、私を苦しめ続けている。

野菜を作ろうと思った

gg-8と遭遇した時、メンバーの1人にこんな質問をした。

「農家が混植をほとんどしないのはなぜですか?」

すると「やってみればわかるよ」とだけ言われた。

その人は林業関係の人で、その時にいたメンバーの中でも最も農業に親しい人だった。
その人が明言を避け、自分でやってみればいいと言った。

今にして思えばただの素っ気ない対応だったのかもしれない。
しかしその時の私はそうは思わなかった。

そうだ! 自分で野菜を作ってみれば良いんだ!!

私はそれまで、野菜を含めた植物は育てた経験があった。主に庭でだ。
うちの庭は木が生えており、生える草も独特で90%はドクダミとトクサ、という独特な植生。その木の間のドクダミやトクサを刈り取り隙間に植える。肥料も農薬も無しで連作し続けても問題ない、という珍しい状態だった。
言い換えるなら、私にとってはその混植状態が当たり前であって、単一品種のみを育てる普通の農業=慣行農法というものを私は経験したことがなかったのだ。

いちおう知識はある。
無駄に普通じゃない知識がある。
コンパニオンプランツやバンカープランツ、混植、リビングマルチに新聞マルチ、その多くは知識だけで試したことがないことばかりだ。

問題は場所と体。

場所は検索したらすぐに見つかった。
八戸には市民農園があった。
2008年度の募集は終了しているが、2009年の募集が3月頃にあるらしい。そこなら冬季に堆肥を混ぜ込みトラクターで耕した状態で一区画10坪を利用できるらしい。
ということで、場所は八戸市民農園で決定。

あとはこの体だ…

実はgg-8メンバーと遭った翌日、私は寝込んでいた。
二日酔いではない、吐いたゴーヤの影響でもない。首と左腕の痺れと痛みが酷すぎるのだ。
普段、通院しただけでもその翌日には調子が悪くなる。
私はその点に大きな不安を覚えていたが、そのような状態だからこそリハビリとして野菜づくりをしてみようという結論に至った。どうせこの体ではどこも雇ってはくれないだろうから。

翌年、私は八戸市民農園を借り、この体のリハビリと農家が混植をほとんどしない理由の追求を始めることを決意した。

gg-8との遭遇

gg-8からのお誘いを受けて、飲み会に参加した。
会場は八戸市中心街の三日町、現在八戸ポータルミュージアムはっちが建っている場所。その時はまだはっちの建設工事が始まったばかりで、高い金属フェンス(というか金属板)に囲まれた工事現場の敷地内はビアガーデンのような場所になっていた。

どこにいるのだろうと辺りを見渡していると、一人の女性がこちらに向かって大きく手を振っている。
近付いて話し掛けると、その人がgg-8のリーダーのHさんだった。
面識は無いし私はネットでは顔出ししていないので何故分かったのか不思議だったが、どうやらこれはほぼ中心街関係者しか集まらない場所らしく、たいていの人は知り合いで顔馴染み。
そこに知らない顔の私が来たので声を掛けた、ということらしい。

そのテーブルには複数の男女が集まっていた。
まずは女性が二人、教師をしているという。
男性の一人は森林関係の人、一人は建築関係らしい。
リーダーは地元FM局などでリポーターのようなことや司会などをしている人物らしい。

私はgg-8の活動について詳しく話を聞いた。

ゲリラガーデニングを名乗ってはいるが、基本的に地権者や関係者の許可を得て活動しているとのこと。
メンバーの多くは仕事持ちのため、夜に活動することが多いとのこと。
ネット上ではブログとmixiで情報発信や交流をしているということ。
種や苗は地元で園芸などのお店をやっているパセリー菜が協力してくれてること。
現在(当時)はりんご箱で作ったgg-8オリジナルプランターを中心街をメインに展開中とのこと。
この隠れビアガーデンの工事現場金属フェンスの足元にもプランターを設置しネットを張ってゴーヤを植え、一面をゴーヤで埋め尽くす計画であること、などなど。

一通り話を聞くと「gg-8の活動に参加しないか?」と誘われた。

正直、かなり迷った。
体が動くかどうかの不安、それがどうしても拭えない。
その場での即答は避けたが、私は結局この歳の秋ぐらいからgg-8の活動に徐々に参加していくことになる。

事故後、初めての楽しい時間だった。

帰り道、初めて食べたゴーヤが体に合わなかったらしく吐いた。ゴーヤだけ未消化で出てきた。

gg-8からの誘い

3月17日の交通事故発生、4月17日の祖父危篤、5月17日のディーラー店長失踪と3ヶ月連続で17日に不幸事が続いていたわけですが、それ以降の17日には不幸なイベントは発生せず、ひとまず胸を撫でおろしながら相も変わらず週に3~4回の通院をしていたある夏の日のこと、突然見知らぬ人からメールが届きました。

差出人はgg-8の人。
gg-8…それは八戸市を拠点にゲリラガーデニングをする市民団体。本家英国では土地の持ち主の許可を得るとは限らないまさにゲリラ的にガーデニングをする行為、厳密に言えば違法行為なわけですが、gg-8は大々的な告知はしないものの実際に地権者などに許可を得てガーデニングを行っている団体です。
そのgg-8が新聞に取り上げられ、その記事を今度は私が個人ブログで紹介したことを知った中の人が、
「飲み会に参加しませんか?」
との私にお誘いメールをくれたのです。

実はこの時、私は悩みました。
gg-8について、私は、
「ガーデニングなんてしたところで、実際には中心街が何か良くなるとは限らない」
と思っていました。しかし同時に、
「それでも何もやらずに文句を言うだけの人とは違って、なにか発言するにも行動している分だけ説得力がある」
とも考えていました。
飲み会とはいえそんなメンバーに私がまみれること、それはいいのだろうか? と思ったのだ。それぐらいあの時の私は何も出来ない状態だったから…

それでも私は会いに行くことにした。
何も出来ない私でしかないが、もしかしたら何か出来ることがあるのかも知れない。実際にゲリラガーデニングに参加することは難しくても、まだ動く指先でネットに関することなら関われるかも知れない。
だから私はgg-8に会いに行くことにしたのだ。

5月17日

事故から2ヶ月ほど経ったある日、電話が鳴った。
見覚えのある電話番号はディーラーからだったのだが、ちょっと違う。
車を注文したのとは別の店舗の電話番号だった。
電話に出ると、以前お世話になっていたその店での担当からだった。

店員「どうもーいつもお世話になっております」
私「どうも、ごぶさたしてます…どうしました?」
店員「お車ですね、新たにお買い上げいただいたパレットのご用意が出来ましたのでご連絡いたしました」
私「え?」
店員「納車はいつがよろしいでしょうか?」
私「いや、ちょっと待って」
店員「はい、なんでしょうか」
私「同じ会社とは分かっていますが、別のお店で買ったと思うんですよ」
店員「そうですね、あちらの店舗でのお受け取り希望ということでしょか?」
私「いや…それはもうどっちでもいいんですよ。事故前に務めていた会社があっちに近かったのであちらで買っただけなんで…」
店員「分かりました。詳しくはお会いしてからご説明しますが、あちらの店長が辞めてしまったため、以前お付き合いがございましたこちらで引き受けるという流れとなりました」
私「あぁ、そうですか、分かりました」

予想もしていないことだった。

その後、お店に行き事情を聞くと、私が契約した店舗の店長が急に辞めたとのこと。
急に連絡がつかなくなり、今どういう状況かも分からぬまま、5月17日に辞めたということらしかった。
そこで困った店舗が八戸市内にあるもう一つの支店に連絡を取り、以前はそちらのお世話になっていたのでその時の担当が再び私についた、ということだったらしい。

店員「ちなみに、あちらの店舗で購入となりました理由など、もしよろしかったらお聞かせ願えますか?」
私「単純に、職場があちらに近かったからです。夜勤で北インタ^に職場があるので、何かあった時に寄り易いのは通勤ルート上にあるあちらだったので」
店員「なるほど。あちらの店舗で担当することも可能ですが、こちらでよろしいですか?」
私「いやもう事故で仕事辞めちゃってるし、こちらの方が馴染みだし、このままでお願いします」
店員「ありがとうございます」

納車自体はスムーズに済んだ。

それにしても…
事故に遭った車は書い直した車と同じ車種であり、元々祖父母を病院に連れて行く時に乗せやすいようにと選んでいた。
その車が事故が遭ったのは3月17日、その1ヶ月後の4月17日には祖父が危篤、その後26日に亡くなり、事故から2ヶ月後の5月17日には解約した店舗の店長が謎の失踪を遂げた。
なにかに呪われているのではないかと妹に酷く心配された。

6月17日には命を落とすのではないかと、私はなんとなくそう考えていた。

固定化する症状と、新たな症状

この頃、私は週に3~4回通院していた。
毎日でも通院して構わないと言われていたが、正直体力がもたなかった。

なんとか調子の良い日に病院に行く。
治療は痛み止めの注射を2種類受けて(皮下注射と血管注射)、その後リハビリ、機械で首を引っ張り、胸に丸いパットの電気、そして首、肩、左腕に2箇所と左膝に電気、その後マッサージ。およそ2時間ほど掛かった。
終わって家に帰ればもう動けない。ベッドに横たわったら最後、体を起こすことも難しい。あまりの痛みに体が動かない。トイレに起きることさえ出来ずにそのまま漏らしたことも多数ある。

それでも僅かずつ首と左腕の可動域が広がっていったこともあり、痛みに耐えながらの通院を続けていた。

しかしこの頃から、症状が固定化していった。

首の動きが良くならない。左腕の可動域も広がらず、突然何も感じなくなって目で見ないと腕が生えているのかも分からなくなる。

薬を飲んでいても痛みが引かない。市販薬のナロンエースとインドメタシンの湿布を大量に用いて誤魔化して寝る。
寝るのも首が痛すぎてすぐに目が覚める。寝返りも打てない。寝るほど痛みは増す。でも体を起こすことも出来ないことが多く、ただただ痛みを増すために寝ることしか出来ない。
そして気が付いたことがある。
左の肘を曲げることと、左肩で腕を上げること、その差が分からない。そもそも本来の動きには程遠いのだが、左肘を45度弱まで曲げると、私の感覚的には左腕をまっすぐ上に上げている感覚と同じなのだ。また肘を曲げずに腕を上に上げる(とは言え肘の高さぐらいまでしか上がらない)、これもまっすぐ上に上げている感覚だ。
つまり私は、左肘と左肩の区別がついていないようだった。
また左腕全体の神経がとても過敏なようで、葉っぱ1枚が触れただけでも激痛が走る。腕の骨の真ん中が痛むのだ。
結局、これらの固定化された症状は、今でもほぼ変わっていない。

また新たに気づいた症状らしきものもいくつかある。

ある暑かった日、私は暑いとも感じていなかった。
しかし服は汗だくで、『暑かったのか』とそれで気付いた。
後にはっきりとすることだが、この頃から私は気温の変化を実感しておらず、熱さ冷たさは感じ始めるまで時間が掛るもののなんとか分かるのだが、どれだけ暑くてもどれだけ寒くても私の主観は感じていない。
今でもとても困っている。

尿意と便意もほとんど感じなくなっていると、何度か漏らしてから気付いた。
尿意も便意も、ギリギリにならないと分からない。
だから時間があればトイレに行ってできるだけ出す癖がこの頃に身についた。

唾液も出なくなった。
口の中で濡れているのは下の前歯の後ろと舌の裏だけ、あとはカラッカラに乾いている。
飲み物を飲んだり飴を舐めたりしてみるも、潤うのはその直後だけ。
1年後に始まった困った事象の原因の1つがこれにあると、私は考えている。

突然倒れることも多くなった。
意識はある、しかし天地が分からなくなる(平衡感覚?脳内の何か?)、結果ぶつかったり崩れ落ちたりする。
意外にも車では平気だった。シートベルトで固定しているので倒れないし、天地が分からなくなるのに視界が歪んだりとかではないことが理由だと思う。
倒れるのはほとんどが家の敷地内で、外では倒れない。緊張している時には平気なようだった。

あの頃はまだ、「そのうち治るのだろう」と思うことが出来る自分がいた。
それ以上悪化することや、他に例を聞かないようなおかしな症状、そして治らぬまま10年以上が経過することなど思いもしなかった。

生活費

祖父が亡くなり、少し経って、ふと気がついた。

私はどうやって自分の生活をしていけばいいのだろうか?
事故に遭い仕事を失い身体も悪くし、今はまだ事故直前に働いた分の給料で暮らしているけれども、その後が続かない。
現状働こうにも働けない、まともに歩けないことも珍しくない状態ではその見通しすら立たない。立つはずがない。

そこで私は教職員共済に電話し、なんとか出来ないかと相談することにした。

私「ちょっと聞きたいことがあるんですが」
教職員共済「なんでもお聞きください、力になりますよ」
私「私、働けないんですよね」
教職員共済「えっと…軽傷と聞いてましたがまだ働けない?」
私「いや…これまで何度も説明してきましたよね?事故の影響で働けなくなって仕事を無くしたことも、まともに生活することも難しいって」
教職員共済「はい…いやでも病院では…」
私「だからそれもまともに診てもらえないからって別の病院にしたじゃないですか?それもそちらが言い出したことですよね?」
教職員共済「分かってますけど…軽傷と聞いていたので…」
私「…それで相談なんですけれど、生活は保証してはもらえないんですか?」
教職員共済「生活保障…ですか?」
私「はい。私は加害者から『任意保険が全て面倒見てくれる』と聞いています。このままでは私は収入ゼロで生活も出来なくなりますよね?」
教職員共済「はい…」
私「ですからその生活を保証してはもらえないのかと聞いています」
教職員共済「…」
私「出来ないんですか?」
教職員共済「…分かりました、生活費を出します」
私「本当ですか?ありがとうございます」
教職員共済「月12万円で足りますか?」
私「…え?」
教職員共済「ですから月12万円で足りますよね?通院費はお支払いしていますし」
私「いやいやいや…あの…私は今料理も出来ないし、家のこと何も出来ないような状態なんですよ、分かります?」
教職員共済「はい…」
私「事故前の給料を保証してもらえるんじゃないんですか?」
教職員共済「…」
私「またこっちが我慢しなくてはいけないんですか?車の精算もそう、眼鏡だってわざわざ安い眼鏡を選ばされて、またですか?」
教職員共済「分かりました、事故前の給与を保証いたします」
私「…それは本当ですよね?」
教職員共済「もちろんです」
私「生活保障として事故前の給与を保証してくれるってことですよね?」
教職員共済「その通りです」

このようなやり取りで、私は翌月以降に働いていた時と同程度の金額を出してもらえることとなった。

この時の私は『本当に救われた』と安心していた。
しかし1年後、それが保証でもなんでもなかったことを突然告げられる。
本当に、今思い出しても悔しくてたまらないが、この時の自分には知る由もない。

4月17日

突然遭遇した交通事故からちょうど1ヶ月後の4月17日、いつものように病院に行き、夕方に実家を訪れると、部屋に祖父がいなかった。
危篤となり緊急入院したとの話だった。

急ぎ病院へと向かう。

ベッドの上の祖父は呼吸器を付け眠っていた。
呼びかけにも反応しない。ただ呼吸器により息をしているだけ。
呆けていろんなことを忘れていったが、最後まで私のことは分かっていた祖父だったが、結局亡くなるまで意識が戻ることはなかった。

実家に戻ると二親からこんなことを言われた。

「落ち込むとかわいそうだから、ばぁちゃんとお前の子供は見舞いに連れて行くな」

私はこの言葉が理解できなかった。
本人の意志はいいのか?
かわいそうかどうかは周りが決めることなのか?
それは単に落ち込ませたら自分が悪いことをしたと思うから言っているだけではないのか?

だから私は祖母に訊いた

私「じさまいなくなっただろ?」
祖母「今日は見てないね」
私「病院に入院している。良くないみたいだ」
祖母「はぁ…」
私「どうする?会いに行くか?」
祖母「…行きたいね」

私の子供も同じ答えだったので、私は二親の言葉を無視して祖父の入院する病院に連れて行った。

祖母は祖父を見て顔を撫でて、

祖母「もう駄目だね」

と言った。

帰りに車の中で祖母は言った。

祖母「あれはもう長くないね…駄目だね…近い内にそうなるから、悪いけど葬式とかお願いね…ばぁちゃんはもう弱って座っていることも辛いから全部任せるよ…」

祖父は2008年4月26日に亡くなった。

祖母は葬儀には出ず、棺に入った祖父の顔を何度か眺めただけだった。

祖父母の通院のために買ったスズキのパレット。
納車から半月で事故に遭い、そのまま廃車となり、それに一度も乗ることなく祖父は死んだ。
葬儀の合間にも通院しなければならないのが苦しかった。

銀のパレットと白いパレット

教職員共済が用意していて代車のパッソは30日で返却することとなった。
まずは加害者にも話をしておこうと電話をかけてみました。
しかし呼び出し音は鳴るものの、加害者はいっこうに電話に出ません。
そこで私はディーラーへ相談に向かいました。
代車は教職員共済が私のディーラーに連絡して手配させる、という手段で私に渡っていたので、どのみちディーラーに行かねばなりません。またそもそも事故に遭った車の代わりとなる車の購入の話で会うことになってもいました。

店舗に到着すると、私の担当の店長は教職員共済とのことをすでに知っているらしかった。

店長「代車の返却期限が迫っていますよね」
私「そうみたいですね…私はそんな説明聞いてなかったんですが」
店長「そうですか…ところで新しいお車をご購入されることをお決めいただいたとか」
私「はい…なんとか加害者からも出してもらえたので精算できるので」
店長「それはよかったです、それなら代車を出せますよ」
私「え?代車が出るんですか?」
店長「購入が決定すれば出せます!!」

話はトントン拍子で進んだ。

事故により無職になった私には、新しいローン会社が用意されていた。新しいローンは保証会社のようなものが付き、支払いが滞った場合にはその会社に車の所有権が移る、という内容だった。
車は最速で納入できるという話の銀色のパレットにしたのだが、どういうわけか納車は1ヶ月後になるとのことだった。

心配していた代車はこの日にもう用意された。
代車は白いパレット、ディーラーの試乗車だったようだ。
ラジオすら無い本体のみの使用では遭ったが、私は
「これなら祖父母の通院に困らない」
と胸をなでおろしていた。
正直パッソではドアも車内も狭すぎて、祖父を抱えて車に入ることなどは出来ない状態だったので、そのために購入したパレットと同じ車が代車になったのはありがたいことだった。

少しだけ前進したと、この時は思っていた。

レンタカー

ようやく車をどうするかの目処が立った。

事故に遭った車を教職員共済からの120万円と修理工場下取りの5万円、そして加害者から出してもらった10万円で精算し、新たな車は新規にローンを組んで購入する。
3月17日の事故から1ヶ月近く経って、ようやく車の問題が解決する。

そう思った矢先、教職員共済から電話が来て予想外のことが告げられた。

教職員共済「車の件はどうなりましたか?」
私「加害者がなんとか不足分を出してくれることになり、なんとか事故車の精算は出来ることになりました」
教職員共済「それはよかった…それで新しい車はいつ納車ですか?」
私「5月中旬になると聞いてます」
教職員共済「あぁ…それはまずいですね…」
私「まずい?なにがです?」
教職員共済「いやぁ…レンタカーがもう終わりますよね…」
私「はい?なんのことですか?」
教職員共済「ですから事故後にレンタカーを手配してからもうすぐ30日ですので、もうレンタカーは出せなくなるんですよ…」
私「なんですかそれは、初耳ですけれど」
教職員共済「いやでもそういう決まりですので」
私「いやいやいや…あなたそんなこと言ってませんでしたよね?」
教職員共済「…」
私「解決するまでレンタカーの心配はしなくていいって言いましたよね?」
教職員共済「こんなに時間がかかるとは思っていなかったので…」
私「私最初に言いましたよね?パレット(事故に遭った私の車)は発売されたばかりで納車はおろか、部品調達も時間がかかるとディーラーから言われてるって、私説明しましたよね?」
教職員共済「ですが…」
私「その時にあなたが修理が終わるか車を買うまでレンタカーを出すって言ったんですよ?」
教職員共済「ですが30日という決まりがありまして…」
私「その説明一度でもしてくれましたか?私は一度もそんな話は聞いていませんよ?」
教職員共済「でも普通は30日と決まっていますので…」
私「契約している加害者はその情報知っているでしょうけれど、こちらは補償範囲とかなど聞かされなければ分からないわけですよ。だからこっちは状況を説明して時間がかかると言ったんです。それに対して問題ないとあなたは説明し、30日しかダメだとは一度も言っていませんでしたよね?」
教職員共済「ですがそういう決まりなので…」
私「決まりとかは分かりました。じゃああれですか?私に自分でレンタカーを借りろと言うんですか?」
教職員共済「そうなってしまいます…」
私「おかしいじゃないですか?あなたが大丈夫と言ったから安心してできるだけ急いで話を進めたのに、またこっちに背負えって言い出すんですか?」
教職員共済「そういうことは言っていませんが…」
私「でも自分でレンタカー代どうにかしろって言ってるじゃないですか」
教職員共済「でもそうなってしまうので…」
私「それともまた加害者にお願いしろって言うんですか?あんな嫌な思いをさせられてまた…」
教職員共済「でもこちらでは出せませんので…」
私「ならどうして最初に説明してくれないんですか?」
教職員共済「こんなに時間がかかるとは思っていなかったので…」
私「だからそういう口先だけの言葉なんてどうでもいいんですよ…信号待ちしていただけなのに事故に遭って、補修すると言うから信じたら、あれは出せない、これも駄目…覚えてます?メガネだってこっちが妥協してそちらの言い分に合わせてるんですよ?車だってそうです、どんだけ苦しめるんですか!?」
教職員共済「ですからご迷惑をお掛けして申し訳ないですが、こちらではレンタカー貸出から30日で終了ですので…申し訳ございません…」

その後、何を話しても「レンタカーは出せない」の一点張りだった。
車の購入に関してようやく解決したと思ったら、その納車までの足を私は失うこととなった。